
柴崎薬局の歴史










尾花沢の羽州街道に面したこの場所で、柴崎薬局は二百三十年余にわたって薬を商ってきました。寛政年間(1789年-1801年)の創業と伝わりますが、その背景には、それよりさらに一世紀以上前から続く柴崎家の商家としての歩みがあります。当家に残る言い伝えと、近世史の研究によって明らかにされてきた史実をもとに、柴崎家と柴崎薬局のあゆみをご紹介します。
【目次】(項目をクリックするとその段落までジャンプします)
始まりは江戸前期 ── 農民から商家へ
尾花沢という商業の町 ── 鈴木清風と芭蕉
紅花商人としての柴崎家
多角的な経営 ── 大名貸・御蔵米・地域行政
「柴崎」の苗字と、御救米千五百俵
屋号「まるき」と寛政年間の創業
明治以降 ── 失われたものと、続いたもの

画像は当時のイメージです
始まりは江戸前期 ── 農業から商業へ
代々伝わる文書によれば、本家筋に柴崎弥左衛門と名乗る初代があらわれたのは、江戸の寛文から天和の年間(1660年-1680年代)にかけてのこととされます。当時は農業を生業にしていたようですが、第三代の七郎兵衛のころに商業へと進出し、紅花、大豆、米などを京都や大阪に卸し、また他の商人や武家、大名へ金銭を融通する金融業も営むなど、活発な商いを展開していたと伝えられています。
近世史の研究では、この尾花沢村の柴崎弥左衛門家は、安政二年(1855年)刊行の『東講商人鑑』に「薬種店」として記載されており、また高利金融資本家として、地域の農民のみならず、新庄藩・天童藩・米沢藩などへ大名貸を行っていたことが知られています。明治六年(1873年)時点では、立付米が二千俵を越える規模にまで土地集積を進めていたとされ、東北の在方商家としては極めて大きなものだったと伝わります。
尾花沢という商業の町 ── 鈴木清風と芭蕉
柴崎家が商家として頭角を現していった江戸中期、尾花沢にはすでに豪商と呼ばれる先達がいました。紅花の流通と貸金業によって財を成した鈴木清風(島田屋八右衛門、1651年-1721年)です。
鈴木清風は商人であると同時に俳人としても知られ、松尾芭蕉と深く交わりました。元禄二年(1689年)、芭蕉が『おくのほそ道』の旅で尾花沢に立ち寄り、十泊にわたって滞在したのも、清風の招きと庇護があってのことでした。今日も尾花沢市内に残る「芭蕉・清風歴史資料館」(旧丸屋鈴木家住宅)は、当時の尾花沢豪商の構えを今に伝えています。
清風が子どもたちに宛てて遺した遺言状には、賭け事を戒め、手堅い商いを続けるようにという教えが残されています。手堅さと信用を重んじるこの商人倫理は、尾花沢の商人層に広く共有されていったと考えられています。
江戸中期以降に台頭した柴崎家の歩みにも、この尾花沢の商業風土──広域の流通網を持ちながら、地域に根を張って手堅く事業を継いでいく姿勢──が色濃く受け継がれていたようです。
紅花商人としての柴崎家
江戸時代の山形・村山地方は、京都の染物と化粧の原料となる紅花の一大産地でした。柴崎家は、紅花の主産地のひとつである尾花沢を拠点に、生産農民から紅花を集荷し、京都の紅花問屋へと出荷する「在方紅花商人(ざいかたべにばなしょうにん)」として、独自の地位を築いていきました。
特筆すべきは、柴崎家が単なる集荷業者にとどまらず、京都に「渡会屋(わたらいや)」をはじめとする別家を構えて、紅花の流通ルートを自前で確保していた点です。
宝暦のころ、本家五代目弥左衛門の下で重役手代として仕えていた善右衛門が、京都で別家を起こしたのが渡会屋の始まりとされます。渡会屋は別家という形を採りながらも資本や経営は本家柴崎家に基づいており、本家の京都出先機関として機能していました。
天明四年(1784年)、京都町奉行所が新興の紅花問屋五軒に対し、呉服御用商人の下職である紅染屋との自由売買権を与えた折、渡会屋善右衛門はその一人として名を連ねています。これにより渡会屋は、京都紅花市場における有力な紅花問屋としての地位を確立しました。
本家柴崎家は、渡会屋のほかにも、京都に村山屋を、また天保期には別家筋から柴崎屋宗右衛門を出すなど、複数の別家を京都市場に送り込み、京都の紅花問屋集団である「紅花撰方仲間」の中に複数の名を連ねていました。生産地である尾花沢から京都までを貫く同族的な経営組織を作り上げていたわけです。
集荷の方法も独特でした。村山地方の生産農民や仲買人に対しては前貸金制度を用い、紅花の収穫前にあらかじめ資金を貸し付け、収穫された紅花でその返済にあたらせるという仕組みで集荷を行っていたことが、当家に残る帳簿類から確認されています。寒河江、中野目、蔵増といった主要な紅花生産地帯の有力な荷主たちが、柴崎家から前貸を受けて紅花を出荷していました。
さらに文化から文政期(1804年-1830年)にかけては、津軽地方の弘前周辺にまで進出し、新たな紅花生産地の開発を試みています。津軽紅花の事業は、自然条件の不適合や栽培技術の未熟さもあって十年ほどで終わったとされていますが、在方商人が新たな生産地を求めて他藩領にまで投資を行うというのは、当時としては画期的な経営方法でした。
このような広域の集荷網と、京都市場に直結したルート、そして同族別家による京都での影響力──これらを備えていたことが、近世の柴崎家を在方紅花商人の中でも目立つ存在にしていたといわれています。
多角的な経営 ── 大名貸・御蔵米・地域行政
柴崎家の事業は、紅花の集荷と京都への出荷だけにとどまるものではありませんでした。紅花取引によって蓄積された資本は、在地での金融業、土地集積、そして公的な御用に再投資され、複線的な収益構造を形成していきました。
『尾花沢市史資料』第六輯・第七輯に収められている「柴崎家文書」には、寛延四年(1751年)から文久三年(1863年)に至るまで、百年余にわたる当家を取り巻く取引の様子を物語る文書が膨大に残されています。注目すべきは、これらの文書に登場する債権者の名が、一貫して「柴崎弥左衛門」であり続けている点です。個人の生涯を遥かに超える期間にわたっており、「弥左衛門」が代々の当主に世襲される名跡(みょうせき)として、家としての信用を継承するために用いられていたことを示しています。
事業の内訳を見ると、大名や武士階級への融資が一つの柱でした。隣接する新庄藩主・戸沢氏に対する「貸上ケ金」関係の文書が残されており、藩の財政運営に資金を提供していたことが分かります。また、天保十一年から十二年(1840年-1841年)にかけては、遠く陸奥国弘前藩の藩士・工藤文吉、山屋鉄太郎に対する金銭融資の覚書も交わされています。先述の津軽地方への進出と並行して、柴崎家の資本が東北一円に流動していたことを示すものです。
公的な御用商人としての役割も担っていました。寛延四年(1751年)の文書群には、丹生村の名主から「預り申御蔵米之事」として蔵米の取扱いに深く関与している様子が見られます。この時、文書は「鈴木五郎兵衛」から「鈴木久左衛門」と「柴崎弥左衛門」宛に出されています。先に触れた鈴木家と柴崎家が、代官所の管理する公的な米の換金・輸送・保管といった御用に共同で携わっていたことが読み取れます。
さらに、当家の文書群には「梺組(ふもとぐみ)御用留」も伝来しています。「梺組」とは、当時の尾花沢における町の末端の自治単位であり、「御用留」とは法令や事務連絡を記録した公的な帳簿のことです。これが柴崎家に伝わっているということは、当家の当主あるいは一族が、商家としてだけでなく、町の年寄・名主格として地域の自治と行政の中核にも関わっていたことを示しています。
紅花の遠隔地商業、地域の農民への金融、武家への大名貸、公的米穀の御用、そして町の自治──柴崎家は、こうした複線的な経営によって、商業上のリスクを分散しながら、地域社会の中で大きな存在感を持つに至っていました。
「柴崎」の苗字と、御救米千五百俵
商人が苗字を名乗ることが許されない時代に、柴崎家が「柴崎」を公に名乗ることができた理由として、次のような経緯が文書で残っています。
1780年代頃、東北地方を襲った凶作──おそらくは天明の大飢饉(1782年-1788年)──に際して、柴崎家は手当米として尾花沢の代官所に千五百俵の米を差し出したと記録されています。その功績によって、幕府から柴崎という苗字を名乗ることを許されたと伝えられています。
天明、そして後の天保の飢饉(1833年-1839年)の折にも、柴崎家のような商家が、京都・江戸・他地域に持つ取引ネットワークを駆使して食糧を緊急に買い付け、最上川の舟運で運び込んで、代官所の救済事業に資金や米穀を供出していたと考えられています。村山地方の商人層は、行政だけでは対応しきれない災害時の食糧供給の一翼を担う、地域のセーフティネットの一部としても機能していました。
これらは当時の経済力と、地域への責任を引き受ける立場にあったことを示すエピソードです。
当時の尾花沢は、参勤交代の宿場町として羽州街道沿いに栄えていました。柴崎薬局の前の通りは、まさにその羽州街道で、現在でも尾花沢の花笠祭りのパレードはこの通りで行われています。街道沿いのこの場所に店を構えた当家にとって、地域の往来との関わりは創業以来のものでした。
屋号「まるき」と寛政年間の創業
現在の柴崎薬局は、本家弥左衛門家の六代目六郎兵衛の代に分家した保右衛門を初代と数えます。江戸寛政年間(1789年-1801年)の創業と伝わり、当時から同じ場所、すなわち羽州街道に面したこの地で薬の商いを始めました。
屋号は「まるき(◯に木)」。近年は耳にすることも少なくなりましたが、この近所のご年配の方の中には、今でも「まるきさん」と呼んでくださる方がいらっしゃいます。当時から地域に根付いた呼び名として、二百年余を経た今も静かに残っている屋号です。
なぜ薬を扱う商家として独立したのかについては、本家三代目の七郎兵衛が医師であり、生薬の知識を持っていたことから、もともと薬種を商いのひとつとしていたことが背景にあったと考えられます。江戸時代の柴崎本家は、紅花、米、大豆といった上方物資の卸売、金融業、そして薬種という、複数の商いを並行して営む大規模な商家でした。寛政年間に分家として独立した保右衛門は、その中の薬種という一事業を引き継ぎ、街道沿いのこの地で店を構えたことになります。
当家には、当時の商いを物語る品として、生薬をすりつぶす薬研(やげん)、薬を持ち運ぶための印籠、そして古い看板などが今も残っています。印籠というと時代劇でよく目にするものですが、もともとは薬を携帯するための実用的な道具でした。
明治以降 ── 失われたものと、続いたもの
明治維新の混乱と、それに続く諸制度の変革の中で、柴崎家はそれまで持っていた財や事業の多くを失ったとされています。広域に展開していた紅花取引や金融業の記録は当家にはほとんど残されておらず、近世の柴崎家の壮大な経営の姿は、むしろ後年の研究者によって、京都の渡会屋に残された史料や、各地の生産者・取引先に残された文書などから掘り起こされてきたものです。
その一方で、薬を扱う家としての営みは、寛政年間以来同じ場所で続いてきました。
昭和の頃の柴崎薬局は、いわゆる町の薬屋として、市販薬や生活雑貨を中心とした品揃えのお店だったといいます。やがて医薬分業の進展と処方箋調剤の普及にともない、調剤室を整え、市販薬や生活雑貨の販売を続けながら処方箋調剤も行う、という現在の業態へと姿を変えていきました。
そして平成・令和に入ると、地域の医療機関から処方箋を受け、患者さんのお薬を一元的に管理することが薬局の中心的な仕事のひとつになっていきます。柴崎薬局は、現在では尾花沢市内外の医療機関からの処方箋を受け、市販薬や生活雑貨も併せて扱う、地域に開かれた薬局として営業を続けています。
参考文献
浅井和「近世中後期における在方紅花商人の経営形態 ── 羽州尾花沢村の柴崎家について ──」
今田信一『最上紅花史の研究』
尾花沢市史編纂委員会編『尾花沢市史資料 第六輯 柴崎家文書(その一)』『同 第七輯 柴崎家文書(その二)』


